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家族のなかで「ルーツ」が意味するもの

複数のルーツを持ちながら日本で生活する人たちが、世代を超えて受け継ぎたいと思っていること、新たに築いていこうとするものは、いったい何なのか。家族の記憶から現在の自身につながる手がかりを、インタビューを通して語ります。

ある家族が国を渡って新たな土地で根を下ろすとき、親と子が互いに、異なる環境と文化の中で育つという事実に向き合うことになります。 社会の常識や教育のスタンダードががらりと変わる状況下で、新たな形を模索しながら生きていく。 親しみ、無関心、拒絶、無いものねだり、追慕… あらゆる感情が複雑に絡み合い、その過程すべてが個人のアイデンティティの一端を形づくります。 親はさらにその親から受け継いできたルーツがあり、子はさらに次の世代へ残したいと思う価値観があるのでしょう。 一方でもしかすると、文化と時代の隔たりによって、伝えようとしたけれど言えなかった思いもあるかもしれません。 ここでは、複数のルーツを持ちながら日本で暮らすさまざまな世代の人たちを取材し、インタビューを通して家族と自身のアイデンティティの関わりをたどっていきます。

プロジェクト企画・製作者: 戈 文来(Wenlai Ge)

2021.08.16

エッセイ#1:上海の祖母の家

私が最初に中国に渡ったのは、生後6か月のときだったと聞いている。つくばの大学病院で産まれた私を、母が実家の両親のもとへ連れていった。
母方の祖父は中国語で外公(ワイゴン)、祖母は外婆 (ワイポォ)と言う。家族の誰かがビデオカメラを持っていたとは思えないが、なぜか写真ではなく映像の中で見たような気がする。
緑の生け垣の前で、赤ん坊の私を抱いているところだ。二人とも若く、50代だった。祖母はパーマではなく、肩近くまで切りそろえた髪だった。祖父は縁の大きなメガネを掛けていた印象があるが、顔かたちは思い出せない。
物ごころついてからの私が祖父に会うことはなかった。小学校の校長先生だった祖父は何かの嫌疑をかけられ、2年の投獄生活の末に体を悪くし、そのまま亡くなったという。

本当の意味ではっきりと中国に「触れた」のは、5歳のときだった。
1993年の上海近郊は、今のような大都市の面影はまだなく、ほとんどの人が団地のような集合居住区に住み、市場や個人商店で買い物をしていた。

それまで日本人の子どもたちと同じように保育園に通い、日本語だけで会話をしていた私は、母親といっしょに上海の郊外にある祖母の家にやって来た。
団地を二階へ上がった突き当たりの、玄関もベランダも無いような狭い家に、看護師の仕事を定年退職した祖母と大学教授の叔父が二人で暮らしている。当然赤ん坊のころの記憶はなく、言葉の通じない祖母と叔父は、当時の私にとってほとんど他人のように映った。

床は古い土間で、ところどころ穴をセメントで埋めた跡があった。ベッドは手のひらほどの薄さの固綿とゴザが敷かれているだけ。洗濯板なんてそれまで見たこともないし、水は一度沸かさないと飲めない。トイレットペーパーは鼻紙として使われていて、一方のトイレではガサガサした紙でおしりを拭くように言われた。
通りのそこかしこではタンクトップすら着ていない、上裸のおっさん達が虚ろな目でこちらを見やっていた。日中は原付のクラクションのけたたましい音が鳴りやまず、時おり誰かが怒ったように叫ぶ声が響く。

生活は不合理で不便だった。おまけに人々は粗野で無遠慮だった。一言でいえば、遅れている、という感じだった。
ちょっとのあいだ遊びに来ただけなら、まだいい。ところが、言葉もわからない状態の私を置いて、母親は1ヶ月後に日本に帰るという。中国語を学ばせるためにしばらく祖母たちに預けることになったらしいが、いま考えてみても、なかなかの決断だったと思う。

とにかく、心細かった。捨てられたんだと心底絶望したし、いやだいやだと何度も言った。どうしても一緒に帰れないとわかったあとは、なんとなくではあるが、もうすべて受け入れるしかないんだ、という諦めが大部分を占めるようになった。相変わらず慣れないことは多く、全方位からカルチャーショックを受け続けたが、目に入ったものを内心ゲッ、とかウッ、と思ったとしても、いったんは飲み込むことはできる。

一方で、言葉の壁は大きかった。
ほどなく現地の幼稚園に通うようになったが、最初のうちは先生や他の子から声をかけられても、どう反応していいか分からず混乱するばかりで、もともと泣き虫だった自分は、本当に一日中泣きどおしのような状態だった。
彼らはみんな親切だし、気づかってくれている。それは伝わった。だからこそかもしれない。私に向けられている言葉に応えることができないという、焦りや悔しさがぐちゃ混ぜになって、反射的に涙が出てしまうのだ。
ほとんど私の泣き顔だけを見て、母親は日本へ帰っていった。

最初のころのつらかった思い出は強烈に残っているが、それからは案外あっという間だった気がする。中国語も毎日聞いているうちに徐々に理解し、短い受け答えならどうにかできるようになった。それまでのあいだ、周囲の大人や友だちがどれだけ根気強く接してくれたかと思うと、感謝しかない。

半年が経ち、母と叔父も昔通ったという小学校に上がった。このころには泣き虫もどこかへ引っ込み、すっかり同級生と打ち解けられるようになっていた。
以降、8歳までは基本的に上海で暮らし、長期休暇に入ると数週間だけ日本に戻ってこちらの小学校に行くという生活を続けるようになる。

娯楽は少なく、たまに送られてくる日本語の雑誌や本と、夕方のテレビアニメくらいしか無かった。それでも祖母と叔父との暮らしは、明るく楽しい日々だった、と思う。
毎日市場で仕入れた新鮮な食材で作る祖母の手料理は、本当にいつもおいしかった。お小遣いの使い方や礼儀も教わったし、悪いことをしたときには本気で叱られた。うだるような暑い夏の夜は、私が寝付くまで、シュロの葉のうちわでずっとあおいでくれた。わがままを言って反発することも多かったが、愛情をもって受け止めてくれた。
叔父は親切でユーモアのある人だった。どちらかというと見守るタイプだったが、何かを注意をするときも「~しなさい」という直接的な言い方はぜず、やるべきことをしないことで私がどう困るのか、分かるように道理を伝えてくれる教育の才があった。

休日にはよく祖母の買い物についていった。祖母は社交的な性格で、街に出ると必ず誰かから声を掛けられる。
「日本から来た孫でね」と祖母が言うと、私は促されるままに相手にあいさつをし、あとは会話が終わるのを黙って待っていた。それがシャイに見えるところも合わさってか、“小日本(シャオルーベン)” というあだ名がついた。
いま思えば、祖母のほうから私をそんなふうに紹介したことはなかったはずだが、不思議なことに初対面の人も含め、けっこう色々な大人たちから言われた。ということは中国語の愛称の付け方からして、自然な発想なのだろう。もの珍しさはあったとしても、嫌味ではない。
自分でも「日本から来た子」のつもりでいたので、当時は何とも感じていなかったが、もし逆だったら――日本にいて、周囲から中国人であることを悪気なく言われ続けていたら、どうだったかなと、少し考えてしまう。

上海で暮らした3年間で学んだのは、言葉だけではなく、中国人の気質や生活に根ざした考え方、何を尊び何を排するのかといった文化的な価値基準だった。
さらにいえば、中国側に寄って強く共感することもできるし、相対化して見ることもできるという複眼的な立ち位置だったのかもしれない。
ルーツ、という表現はじつはまだピンと来ていないところがあるが、私個人の原点は、間違いなくここにあると思う。

“来丫头,你这个坏东西。”
来は私の名前、丫头は「小娘」を指す。坏东西は直訳すれば「悪いもの、悪いやつ」という意味である。日本語でニュアンスを伝えるのはとても難しいが「本当に手が掛かる子」といったところだろうか。
私がどんなに大きくなっても、祖母は会うたびにしみじみそう言った。顔を見ながら、一日に何度も。それがどんなに愛情にあふれた言葉なのか、すでに聞くこともない今となっては、なつかしさが胸に迫るばかりである。

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企画・製作者

戈 文来(Wenlai Ge) [企画・インタビュー]

1988年生まれ、在日中国人二世。5歳から8歳まで祖母のいる上海で暮らす。 現在はIT企業でアジア向けの事業開発を担当するかたわら、舞台作品の演出やアートプロジェクト、演劇ワークショップの企画に携わっている。